宮澤賢治の生涯(年譜)

宮澤賢治 (1896年8月27日~1933年9月21日)

宮澤賢治 年譜

■明治29年(1896年)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・0歳

 8月27日、父・政次郎(22歳)、母・イチ(19歳)の長男として生まれる。家は岩手県稗貫郡里川口村川口町303番地(現・花巻市豊沢町)にあったが、初産は実家で行うのが花巻の習慣で、母の実家である宮澤善治方(現・鍛冶町)で誕生した。

 家業は祖父・喜助の開いた質・古着商。賢治の父・政次郎は、喜助の長男として十代の頃から実質的な経営を受け持った。後に町会議員を4期務め、各種調停委員を務めたり、仏教講習会を主催したりする謹厳実直な人物であった。賢治の母・イチは善治の長女として生まれ、明治28年、18歳で政次郎と結婚した。

■明治31年(1898年)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2歳

 11月5日、妹・トシが生まれる。後に賢治に転機を与える最愛の妹である。

■明治32年(1899年)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・3歳

 離婚して実家に戻っていた父の姉・ヤギが、賢治に親鸞の「正信偈」や蓮如の「白骨の御文章」を子守歌のように聞かせ、賢治はともに仏前に正座して暗誦した。賢治の仏教的素地はこの家庭の雰囲気から形成された。

■明治34年(1901年)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・5歳

 6月18日、妹・シゲが生まれる。

■明治35年(1902年)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・6歳

 9月下旬、赤痢を病み、花巻町本城の隔離病舎に入った。約2週間で退院したが、看病にあたった父・政次郎が感染し、その後胃腸が弱くなった。

■明治36年(1903年)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・7歳

 4月、花巻川口尋常高等小学校尋常科に入学。入学当初は登校途中の犬が怖くて、夜寝られなかったとか。

■明治37年(1904年)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・8歳

 2月10日、日露開戦。4月1日、弟・清六が生まれる。

■明治38年(1905年)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・9歳

 小学校3年の担任、八木英三から「未だ見ぬ親(マーロ原作「家なき子」)や「海に塩のあるわけ(民話「海の水はなぜ辛い」)などの童話を熱心に聞いた。このころから鉱物採集や昆虫採集、標本作りに熱中し、”石っこ賢さん”とあだ名された。在校中は成績優秀で全甲。上級に進むにつれて悪さも覚えはじめ、ススキの野原に火をつけてみたり、小船に乗って北上川の対岸の畑の瓜を盗みに行ったり、教室の入り口を開けると物が落ちる仕掛けをしたりとか、誰もがたどるような成長過程をたどった。9月5日、日露講和条約調印。校名が花城尋常高等小学校と改められる。

■明治40年(1907年)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・11歳

 2月、担任の八木英三が退職するとき、生徒に将来の希望を書かせたが、賢治は「お父さんの後をついで、立派な質屋の商人になります」と書いたという。3月4日、妹・クニが生まれる。

■明治42年(1909年)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・13歳

 2月、綴方「冬季休業の一日」を書く。小学校6年生の時の綴方は「国語綴方帳」と題され綴じられているものの中に16篇がおさめられている。3月、花城尋常高等小学校卒業。

 4月、岩手県立盛岡中学校(現・盛岡第一高等学校)に入学。寄宿舎生活に入る。商家の長男に学問は不要という祖父の反対を父・政次郎のとりなしで、中学校のみでそれ以上の進学はしないという条件で認められたという経緯もあって、中学校生活中の行動や感情はかなり複雑であった。ともかくも、謹厳な父の下で、きまじめな子供として生活していた賢治は、同世代の友人との共同生活に入ることで大きな開放感を得る。中学校時代の賢治は、鉱物採集と登山が趣味であった。

■明治43年(1910年)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・14歳

 6月、岩手山初登山。このときは舎監引率の下での植物採集が目的だった。以後の賢治の岩手山登山は数え切れない。9月19日、友人に宛ててかなりくだけた文体の書簡を出す。内容は、大沢温泉でのいたづら、成績の悪さ、教員への反感などで「僕は来学期も僕独特の活動をしようと思っている」という。12月、賢治に短歌制作のきっかけを与えた盛岡中学の十年先輩石川啄木が『一握の砂』を刊行。

■明治44年(1911年)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・15歳

 8月、盛岡市北山にある浄土真宗願教寺の仏教夏期講習会で、以後度々聞くことになる島地大等の法話を初めて聞く。この年から短歌の制作が始まったと思われる。短歌の制作は大正10年まで続く。また、あまり勉強をせず、教員にも反抗し、「中央公論」やエマーソンの哲学書などを読んでいたという。

■明治45年・大正元年(1912年)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・16歳

 5月、修学旅行で石巻・松島・塩釜・仙台・平泉などをまわる。10月、父兄懇話会に盛岡における賢治の保証人が出席し、そこで聞いた賢治の学校生活を宮澤家に報告。それによれば、代数・幾何・化学などの成績が悪いとのこと。11月3日、賢治は父宛の書簡で、成績の悪さに対して居直りともとれる態度をとっているが、このころから文学への傾倒を示し始め、いわゆる疾風怒濤の時代が始まるようである。中学には進学できたものの、それ以上は祖父の反対でままならず、家業への嫌悪も深まり、進路に悩み始めるのもこのころからである。

■大正2年(1913年)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・17歳

 3月12日、祖母・キン死去(61歳)。前年、賢治中学校4年生の2学期から続いた新舎監排撃運動の結果、3学期になって4,5年生全員が退寮を命じられ、賢治は盛岡市北山の曹洞宗清養院へ下宿する。5月、北海道への修学旅行(函館・小樽・札幌・白老・室蘭・大沼・青森)。下宿を北山の浄土真宗徳玄寺へ移す。9月、曹洞宗報恩寺の尾崎文英について参禅し、頭を青々と剃り上げる。丘浅次郎『進化論講話』やツルゲーネフの作品などを読む。また中里介山の「大菩薩峠」が『都新聞』に連載開始。賢治は、これを読んだのか後年の文語詩未定稿に「机龍之介」をうたった「[廿日月かざす刃は音無しの]」がある。

■大正3年(1914年)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・18歳

 3月、盛岡中学校卒業。4月、盛岡市岩手病院入院。肥厚性鼻炎の手術を行う。術後、高熱が続く。入院中、賢治は病院の同い年の看護婦に片思いの初恋をする。5月末に退院。父母に看護婦と結婚したいと言うが、反対されたという。この初恋については多くの短歌やメモが残されており、また後に文語詩(「公子」下書稿一)にも書かれている。ただ、これは賢治の一方的な思いのようだ。その後、上級学校への進学が親に認められず、家業の店番、母の養蚕の手伝いなどをしながら鬱々とした日々を送る。

 9月、ノイローゼ状態になった賢治をみかねて、父は賢治の希望した盛岡高等農林学校の受験を許可する。この頃、島地大等編『漢和対照妙法蓮華経』を読んで異常な感動を受け、生涯の信仰をここに定めることになったといわれる。

■大正4年(1915年)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・19歳

 1月、盛岡市北山、時宗教浄寺に下宿し、受験勉強に打ち込む。4月、盛岡高等農林学校農学科第二部(現・岩手大学農学部)に主席入学。再び寄宿舎生活に入る。同時に妹・トシは、東京目白にある日本女子大学校家政学部予科に入学し、校内の寄宿舎に入った。賢治とトシの甥(末妹クニの長男)淳郎の命名した「宮沢トシ自省録」によれば、トシの上京・進学の裏には花巻高等女学校時代の教員との恋愛スキャンダルがあるという。なお、父・政次郎は4月1日、町会議員に当選、7日、祖父・喜助の隠居によって家督を相続した。8月、この年も願教寺の仏教夏期講習会に参加し、島地大等の歎異鈔法話を聞く。

■大正5年(1916年)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・20歳

 3月、特待生に選ばれ授業料免除となる。19~31日、修学旅行(東京・興津・京都・奈良・大阪・伊勢・鳥羽・蒲郡・三島・箱根・東京)。訪問先は各地の農事試験場や農学校など。伊勢以後は有志による観光旅行。箱根八里を歩いて越えた。

 4月、盛岡高等農林学校2年生。このころ賢治は、朝晩、寮や教室で読経をしたという。報恩寺で座禅を組むことも日常であった。13日、新入生5名が寮の賢治の部屋に入る。この中にトルストイに影響を受けて農業を志したという保阪嘉内がいた。以後親密な交際に入る。5月、北上山地探訪。このときの体験が「丹藤川」(後に手入れされ「家長制度」と改題)として書かれた。最初の散文作品である。7月、盛岡付近の地質見学調査。30日から上京。ドイツ語の夏期講習会に参加しながら東京で一夏を過ごす。9月2~6日、埼玉県の秩父、長瀞、三峯地方の土性地質調査見学。在京中の賢治は上野駅で参加。11月、『校友会々報』第三十二号に健吉の名で短歌「灰色の岩」29首発表。最初の雑誌発表作品である。以後、同誌に翌年12月まで3回にわたり短歌を発表。

■大正6年(1917年)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・21歳

 1月4~7日、父の商用を果たすため上京。浜町の明治座に寄り、歌舞伎一幕を見る。16日、妹・トシへの書簡の中で、自分の将来の職業について「木材の乾溜、製油、製薬の様な孰れと云へば工業の様な仕事で充分自信もあり又趣味もあることです」と述べる。3月、再び特待生となり、旗手を命じられる。

 4月、盛岡高等農林学校3年生。弟・清六が盛岡中学に入学。賢治は寮を出て、弟と同じ家に下宿。父・政次郎、花巻川口町町会議員に当選。7月1日、同人雑誌『アザリア』第1号発刊。賢治は短歌20首と短篇「「旅人のはなし」から」を発表。同人は盛岡高等農林学校生12人。謄写版手刷り、手綴じで同人に配布する分しか発行しなかった。『アザリア』は翌年6月に6号で終刊。賢治は短歌・短篇を発表。7日夜、同人の集まりがあり、終了後の深夜零時過ぎから同人4人で秋田街道を春木場まで20キロ歩いた。短篇「秋田街道」にその様子が書かれている。25~29日、北海道への修学旅行には参加せず、花巻町有志による「東海岸視察団」(釜石・宮古など)に参加。8月28~9月8日、江刺郡地質調査。9月16日、祖父・喜助死去(77歳)。

■大正7年(1918年)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・22歳

 1月26日夜、花巻へ帰り、翌日にかけて卒業と将来の問題について父と話し合う。その後、2月から3月にかけて、これらの問題に関して、書簡によると父との対立が続く。その中心は「職業」と「徴兵」の二点である。紆余曲折があったが、結論としては研究生として残り、徴兵検査は受けるということになった。なお、この間の書簡のやりとりの中で注目されるのは、父に対して初めて積極的に法華経の行者として生きていきたいという願望を明示したことである。結局、賢治は自分の信仰を全うするために早く自立したいということのようである。2月23日、卒業論文の草稿を提出したことを父に伝える。卒業論文は「腐植質中ノ無機成分ノ植物ニ対スル価値」。3月13日、『アザリア』同人保阪嘉内が除籍処分となる。『アザリア』5号に発表した「社会と自分」の一節に「帝室をくつがえす」「ナイヒリズム」などの記述があったため、危険思想の持ち主と判断されたためらしい。保阪はその後、故郷山梨県に帰って、トルストイの影響や武者小路実篤らの「新しき村」などの運動にも触発されて、農村改革運動の実践を始める。これが賢治のその後にも大きな影響を与えた。3月15日「地質土壌。肥料」研究のための研究生としての在学が許可される。

4月、稗貫郡土性調査が始まりこれに加わる。28日、徴兵検査。第二種乙種。兵役免除。5月、盛岡高農実験指導補助を嘱託される。6月、郡の土壌分析にかかる。一方、父宛の書簡で、現在の仕事に対する疑問を提示し、今後の職業の希望について語る。また、保阪嘉内には折伏ともとれる法華経の勧めを書き送る。30日、岩手病院で肋膜炎の診断。後年、その生命を奪った結核の始まりである。8月、願いにより実験指導補助を解かれる。

この夏、童話「蜘蛛となめくぢと狸」「双子の星」を家族に読んで聞かせる。12月、妹・トシ入院の報を受け、母・イチとともに上京。病院の近くに宿をとり、翌月3月まで滞京して看病にあたる。賢治はこの間、職業問題に熱意を示し、東京に店を開き、石材などの販売をするための準備・交渉などをする。父との妥協で研究生にはなったものの、やはり独立したいという気持ちが強かった。なおこの年、7月には武者小路らの「新しき村」が創刊され、11月には宮崎県での実践が開始されている。

■大正8年(1919年)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・23歳

1~3月、妹・トシ入院中、毎日父へ病状についての書簡を送る。トシの病状が落ち着いてからは、看病の合間をみて上野の帝国図書館に通うようになり、また、前年4月に落成した上野桜木町(鶯谷)の国柱会館を訪れ、田中智学の講演も聞いている。この間、東京帝大に在学中の盛岡中学同期生、阿部孝から萩原朔太郎の詩集『月に吠える』を借りて読む。さらに、1~2月、父に対する書簡で、東京における開業について具体的なプランを書き送っているが、何度かの書簡のやりとりの後に、結局父の反対によってすべてご破算となり、賢治は父に居直り的な反抗を示したりする。3月、トシも含め全員で花巻に帰る。トシは見込み点によって卒業を認められた。

4月、これ以降しばらく家業の手伝いをしながら鬱々とした毎日を送ることになる。また、四篇の初期短篇を書いたり、仏教布教を目的とする「手紙一」「手紙二」などを活版印刷して様々な方法で配布している。なお、この年郡立農蚕講習所の講師を務めた。

大正9年(1920年)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・24歳

5月、盛岡高農研究生を修了。助教授になる話もあったが、父子ともに実業へ進む考えをもっていたため辞退した。7月、保阪嘉内への書簡で、法華経よりも日蓮を強調するようになる。8月、保阪への書簡で、来春の上京を予告。夏、田中智学著「摂折御文 僧俗御判」をまとめる。9月妹・トシ、花巻高等女学校教諭心得となる。10月23日、「正信」に入る。この日は旧暦9月12日、日蓮の「龍ノ口法難」650年記念日であった。賢治はこの日の夜、花巻の町を題目(南無妙法蓮華経)を声高らかに唱えながら歩き回った。12月、保阪嘉内への書簡で国柱会入会を伝える。また町内を歩き寒修行をしたり、『法華経』『日蓮聖人遺文』の輪読会を行う。この年、初期短篇の改稿を次々に行う。

大正10年(1921年)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・25歳

1月23日、家出・上京。翌日、鶯谷の国柱会館に行き、応対した高知尾智耀に、父の日蓮宗への改宗を願って出てきたこと、国柱会での仕事をしたいことなどを話すが、ひとます親類の家に落ち着くように言われ、父の知人のもとに仮泊する。その後本郷に下宿を求め、近くの文信社に校正係として勤める。父からの帰宅命令も無視し、送金も返送し、あくまでも自立を貫くかまえであった。午前中印刷所に通い、午後から夜十時までは国柱会で会員事務を手伝い、時には上野公園での街頭布教にも参加するという毎日であった。

4月初旬、父・政次郎上京。賢治の下宿を訪れる。2~7日、父とともに伊勢・京都・奈良へと旅をする。父は聖徳太子1300年遠忌・伝教大師1100年遠忌に賢治を同道させることによって、間接的に国柱会への固執を反省させ、合わせて親子の感情の融和をはかろうとしたものらしい。結局賢治は初志を曲げなかったが、感情的にはやや落ち着くようになった。7月、親戚の関徳弥への書簡で、家からの送金を受け取っていること、書いたものを売ろうとしていることなどを述べ、「これからの宗教は芸術です。これからの芸術は宗教です」といい、創作活動への意欲を見せている。この頃、信仰に関する考え方の違いから、親友・保阪嘉内と決別。

8月、10月には花巻に帰るつもりでいたところ、中旬になってトシ病の報が届き、書きためた童話の原稿をトランクにいっぱいおさめて、急いで花巻に帰る。25日、童話「かしはばやしの夜」を書く。以後、童話集『注文の多い料理店』におさめられる童話の制作が続く。9月、1日付発行の雑誌『愛国婦人』九月号に童謡「あまの川」を発表。これが公的な初めての活字化である。なお、「加稿B」の自筆清書はこの月以降。以後、賢治は短歌をほとんど書いていない。

12月、『愛国詩人』十二月号に童話「雪渡り〈一〉」を発表。3日、稗貫郡稗貫農学校(現・県立花巻農業高校)教諭となる。担当科目は、代数・農産製造・作物・化学・英語・土壌・肥料・気象・水田稲作実習など。稗貫農学校は高等小学校卒業を入学資格とした修業年限2年の、この年開校したばかりの生徒数62名、教職員数6名の小さな学校であった。この冬、短歌から詩への移行の秀作「冬のスケッチ」を書く。

■大正11年(1922年)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・26歳

1月、『愛国詩人』一月号に「雪渡り」の「その二(狐小学校の幻燈会)」を発表。生前唯一の原稿料5円をもらっている。6日、童話と並行して心象スケッチ(以後、「詩」と表示する)「屈折率」「くらかけの雪」を書く。以後、詩集『春と修羅(第1集)』に収録される詩の制作が続けられる。またこの月、短篇「花椰菜」「あけがた」を書く。妹・シゲ結婚。

2月、「精神歌」など校歌・応援歌四篇を次々に作り、学校への思い入れが深まっていく。この頃からレコード収集を始める。ベートーベン・シューベルト・ワーグナー・シュトラウス・ドビッシーなどのクラシックで、給料がほとんど消えてしまうほど買い込み、レコード・コンサートもしばしば開いたという。8月、短篇「イギリス海岸」を書く。この夏、生徒を引率して岩手山登山。この後もしばしば生徒とともに岩手山登山をするようになる。9月、農学校で自作の「飢餓陣営」を上演する。

妹・トシは6月から病臥していたが、熱が治まらない上、喀血までしたので、12日付で花巻高女を退職する。11月27日、トシの容体が急変し、午後8時30分ついに死去。この日付の詩「永訣の朝」「松の針」「無声慟哭」にこの日の様子が描かれている。この年、弟・清六は盛岡中学校を卒業し、家業の手伝いをしている。

■大正12年(1923年)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・27歳

1月、家業への嫌悪、トシ死去の暗い雰囲気から脱出するため、父の了解を得て上京し、研数学館で勉強していたが、弟・清六を訪ね、童話原稿を『婦人画報』『月刊コドモノクニ』発行所東京社へ持って行くように言う。清六は言われたとおりにしたが、雑誌に向かないからと言って断られた。この間、賢治は鶯谷の国柱会館で田中智学作の国性劇を観劇したり、静岡県三保の国柱会本部へ行き、トシの分骨の納骨手続きを取ったりしている。

4月、郡立稗貫農学校は岩手県に移管になり、県立花巻農学校となる。8日、『岩手毎日新聞』に「心象スケッチ外輪山」と童話「やまなし」を発表。15日、同紙に童話「氷河鼠の毛皮」を発表。5月、来演中の東京大歌舞伎を見に盛岡へ行く。賢治は芝居が好きで、東京へ行くたびに歌舞伎を見たり、浅草オペラなどを見たりしている。11日『岩手毎日新聞』に童話「シグナルとシグナレス」を発表。その後、23日まで分載。25日、花巻農学校開校式の記念行事として、自作の劇「植物医師(異稿)」と「飢餓陣営」(略称「バナナン大将」)の二篇を二昼夜二回監督上演した。7月、国柱会機関誌『天業民報』に「角礫行進曲」を発表。以後、『天業民報』に何度かにわたり詩を発表している。

7月31日~8月12日、青森、北海道経由樺太(サハリン)旅行。農学校生徒の就職依頼が目的だが、結果として、トシに対する挽歌群(「青森挽歌」・「オホーツク挽歌」など)が生まれることになる。12月4日、詩「冬と銀河鉄道」を書く。これが『春と修羅(第一集)』の最後の作品である。20日、童話集刊行の意図を持ち、「序」を書く。盛岡農学校の後輩から出版を勧められたのである。

なお、この年、9月1日、関東大震災。賢治は国柱会による「国難救護正法宣揚 同志結束」の基金に10円寄付。関東大震災の救援が目的である。12月、賢治の「農民芸術概論」に大きな影響を与えた、室伏高信の『文明の没落』(批評社)刊行。

■大正13年(1924年)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・28歳

1月、詩集『春と修羅』刊行の意志を持って「序」を書く。2月、農学校生徒に「風野又三郎」(「風の又三郎」初期形)の筆写を依頼。学資の充分ではない生徒に筆耕料を与えるためであった。賢治は度々生徒に筆写を依頼した。20日、詩「二 空明と傷痍」を書く。以後の農学校教員時代後半の詩は刊行されなかったが、賢治の指定(大正13年/大正14年)により『春と修羅』第二集としてまとめられる。賢治は「序」も書いている。また、これ以後の詩には年月日とともに作品番号が付されている。

4月20日、本日付で心象スケッチ『春と修羅』を自費出版(発行所・東京京橋区関根書店)。収録詩編は八章六九篇。賢治はこの詩集にかなりの思い入れをもっていたが、ほとんど無視され、夜店で五銭(定価2円40銭)のゾッキ本として売られたりしたという。『春と修羅』を高く評価した中原中也はこれを夜店で買い集め、何人もの友人に贈っている。

5月18日~23日、生徒を引率し、北海道へ修学旅行(函館・小樽・札幌・苫小牧)。帰着後、「修学旅行復命書」を提出。この「復命書」には積極的な郷土改革案が書かれている。

7月23日、『読売新聞』に掲載された辻潤の「惰眠洞妄語(二)」で『春と修羅』が絶賛される。初めての公の批評である。

8月10日~11日、昼夜二回二日にわたり農学校講堂で自作の劇「飢餓陣営」「ポランの広場」「植物医師」「種山ヶ原の夜」を上演し、一般公開した。9月、文部省令により学校劇禁止。

11月1日、本日付でイーハトヴ童話『注文の多い料理店』刊行(発行所、盛岡市杜稜出版部・東京光原社)。収録作品は九篇。この本は最初十二巻のシリーズの予定だったが、ほとんど売れず、この一巻で終了。1000部のうち賢治は300部引き取った。この本の広告チラシで賢治は「イーハトヴ」という語の概念を明確にした。同日付発行の『日本詩人』(第四巻第一二号)で佐藤惣之助が「一三年度の詩集」と題して『春と修羅』を絶賛する。なおこの年3月、石川善助・尾形亀之助他編詩集『左翼戦線』(日本詩人協会)刊行。賢治は後に石川、尾形と親交を結ぶ。

■大正14年(1925年)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・29歳

1月、『赤い鳥』(鈴木三重吉主宰)に『注文の多い料理店』の一頁広告出る。5~9日、三陸地方を一人で旅行する。この間に書かれた詩は「異途への出発」をはじめとして全体に暗い気分の詩が多く、「義理を欠いてまで」の旅立ちは、当時の賢治が自分の現在のあり方を見つめ直すためのものだった。15日、富永太郎が友人への書簡で賢治の詩を評価する。大岡昇平によれば、中原中也や富永太郎にとって、賢治は当時最も理想的な詩人であったという。

3月、当時盛岡中学校4年生であった若い詩友・森佐一(筆名・荘巳池、昭和18年直木賞受賞)と初めて会い、以後親密な交際をつづける。

4月、教え子への書簡で、「わたくしもいつまでも中ぶらりんの教師など生温いことをしてゐるわけには行きませんから多分は来春はやめてもう本統の百姓になります。そして小さな農民劇団を利害なしに創ったりしたいと思ふのです」と書く。この後、多くの知友に何度も「教師をやめる」という考えを表明している。この頃から賢治は生活の転換を考えていた。7月、『貌』(森佐一編集発行)に「鳥」「過労呪禁」を発表。以後同誌に翌年7月まで4回にわたり詩を発表。この月、草野心平が賢治に『銅鑼』同人参加への勧誘をし、賢治はそれに承諾の返事を出す。この時、草野心平は22歳。中国広州の嶺南大学に学んでいたが、暴動化した排日英運動のため帰国したばかりだった。

8月、早池峰山登山を行う。9月、『銅鑼』四号に「心象スケッチ 負景二篇」として「ー命令ー」「未来圏からの影」を発表。以後同誌に昭和3年2月まで8回にわたり詩を発表。10月、25日付の詩「告別」には「云はなかったが/おれは四月はもう学校に居ないのだ/恐らく暗くけはしいみちをあるくだらう」と書いている。

11月、尾形亀之助『色ガラスの街』出版記念会の席上で、尾形は草野心平に賢治の『注文の多い料理店』を勧められ、これをきっかけに賢治に対して雑誌『月曜』への原稿を依頼することになる。12月、『虚無思想研究』一二月号(関根喜太郞編集発行)に「冬(幻聴)」を発表。翌年2月にも同誌に詩を発表。石川善助が森佐一とともに賢治を訪問。版画のことや座敷童子などの話をする。

■大正15年・昭和元年(1926年)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・30歳

1月、『月曜』一月創刊号(尾形亀之助編集発行)に童話「オツベルと象」を発表。以後同誌に3月まで3回にわたり童話を発表。15日、岩手国民高等学校開校式。花巻農学校内に1~3月の間開校された18歳以上の勤労青年のための学校である。賢治は11回にわたって講義を行ったが、内容の中心は「農民芸術論」である。

3月、県立花巻農学校を依願退職する。通算、4年4ヶ月の教員生活であった。なお、『春と修羅』第二集は、1月17日に書かれた「四〇三 岩手軽便鉄道の一月」まで。

4月1日、実家を出て、花巻郊外の下根子、桜の別宅で独居自炊の生活に入る。別宅の下にある北上川畔に畑を作るための作業に取りかかる。5月、詩「七〇六 村娘」「七〇九 春」を書く。これ以降、昭和33年7月までの日付のある詩は、賢治の指定により、『春と修羅』第三集としてまとめられる。これはちょうど「羅須地人協会」の活動期間と一致している。「羅須地人協会」の活動がいつからはじまったのかは明確ではないが、農学校退職の時から考えていたことであろう。5月からは農民楽団結成のための音楽練習が始まっている。

賢治の日常生活は次のようになる。昼間は協会の崖下の畑を自分で耕し、主に野菜や花を栽培した。近くの村へ農事講演や肥料相談に出かけることも多かった。夜は、楽団の演奏練習、レコード・コンサート、童話の語り聞かせなど。冬の農閑期には、昼から、農業や芸術の講義、協会員の製作品、種苗などの交換売買、所持品(本・レコード・楽器)などの持ち寄り競売。

なお、弟・清六は、大正13年12月から弘前歩兵隊に入隊していたが、この年3月に除隊して、5月に家業を建築材料やラジオを扱う「宮澤商会」に転換。実質的に宮澤家の跡取りとなった。

7月、盛岡啄木会の招きで講演のために来た民衆派の代表的詩人白鳥省吾が賢治を訪問したいという連絡をしたが、都会詩人いわゆる職業詩人には会いたくないと断った。伊藤整はこのゴシップを『詩壇消息』(宮本吉次編集)で読み、賢治を立派だと思ったという(「若い詩人の肖像」)

8月、草野心平が『詩神』八月号に評論「三人」を発表。賢治を激賞する。10月、高村光太郎から水野葉舟への書簡に光太郎が賢治の『春と修羅』『注文の多い料理店』を読んでいるとうかがわせる文面がある。水野は光太郎と智恵子が楽しそうに賢治の童話の話をするのを聞いたと言う。

11月、29日から羅須地人協会講義開始。12月、労働農民党稗和支部結成。賢治は事務所の保証人になり、謄写版などを寄付したり、経済的な支援をしたりした。2~29(30)日、セロを持ち上京。図書館やタイプ・オルガン・セロの練習に通ったり、エスペラントの勉強をしたり、また築地小劇場や歌舞伎座などにも通ったりと欲張りな毎日を過ごす。18日、本郷区駒込に高村光太郎を訪ねる。『銅鑼』同人の手塚武とともに語り合い、夕方上野の料理屋で一杯やりながら鍋をつつきあった。12月25日、天皇没。昭和と改元。

■昭和2年(1927年)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・31歳

1月、『無名作家』(高涯幻二編集発行)第二巻第四号に詩「陸中挿秧之図」を発表。10日、羅須地人協会講義再開。以後、ほぼ十の日に行われ、3月までに合計7回。この月、草野心平家出。草野の夢想する「宮沢農場」(羅須地人協会)で働かせてもらうつもりだったが、たまたま乗った列車が新潟行きだったので、結果として生涯賢治と会う機会を失ってしまった。

2月、『岩手日報』に羅須地人協会の好意的な紹介記事が出たが、社会主義教育を行っているのではないかとの疑いを持たれ、花巻警察の事情聴取もあり、以後、活動は消極的になる。4月、花巻温泉遊園地の南斜花壇設計書、所要種苗表を作成し、事務所に送る。5月、花巻温泉南斜花壇に花の苗を植える。7月、天候不順を心配し、測候所に問い合わせを何度もする。メモには「肥料設計ニヨル万一ノ損失ハ弁償スベシ」とある。賢治は無料で稲作の肥料相談・指導を行っていた。

8月、協会の近くに住む女性で小学校の教員、高瀬露がしばしば賢治を訪れるようになる。賢治は心引かれるものがあったのか、「私が今の条件で一身を投げ出してゐるのでなかったらあなたと結婚したかも知れない」と言ったという。しかし、高瀬が賢治に夢中になると今度は彼女を遠ざけようと様々な方法をとっている。12月、盛岡中学校『校友会雑誌』に「銀河鉄道の一月」「奏鳴四一九」を発表。なお、この年、7月、願教寺住職島地大等、芥川龍之介没。

■昭和3年(1928年)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・32歳

2月、湯本小学校で農事講演会。3月、『聖燈』(鮎川草太郎編集発行)創刊号に「稲作挿話(未定稿)」を発表。15日から一週間、石鳥谷町の肥料相談所で肥料設計(農地の肥料計画)。30日、石鳥谷町再訪。肥料設計と講演会。4月、田中義一内閣、労働農民党など三団体の解散命令。労農党稗和支部も解散。

6月7日~24日、水産物調査・浮世絵展観覧・伊豆大島行きの目的で、仙台・東京・伊豆大島へ。水産物の調査は、父・政次郎が家業として水産加工品の生産を考えていて、その可能性を賢治に探らせたものか。一方、伊豆大島行きは、以前からあった伊藤七雄の大島農芸学校開校の相談に応ずるため。また、伊藤の妹・チヱとの見合いの意味合いもあった。結局この見合いは成立しなかったが、詩「三原三部」には賢治の複雑な心境が表れている。この間の東京での賢治の行動は旺盛で、上野の府立美術館の「御大典記念徳川時代名作浮世絵展覧会」を見、帝国図書館・農林省・特許局・西ヶ原試験場に行き、新橋演舞場・築地小劇場・市村座・本郷座・明治座・歌舞伎座で観劇という具合である。

7月下旬、肥料設計をした村々を回って、その後の稲の生育状況を調査。8月、民俗学者・佐々木喜善に返書。『月曜』に発表した「ざしき童子のはなし」を送って欲しいとの求めに応じたもの。

7月10日発熱。花巻病院で「両側肺浸潤(肺結核)」の診断を受け、自宅に戻り病臥、療養することになる。実質的にこの日で羅須地人協会の活動は終わった。9月、末妹・クニ、刈屋主計と養子縁組。宮澤家に同居する。10月、前橋にいる草野心平から「コメ一ピョウタノム」の電報。草野は賢治がアメリカ式農場を経営しているようなイメージを持っていて、極貧状態の窮乏の中で賢治の援助をこうたものである。賢治は金になりそうな造園学の本を送った。『銅鑼』は6月に一六号を発行後廃刊になっている。11月、草野心平は銅鑼社から『第百階級』を刊行。

なお、賢治はこの年の8月以降、翌年夏頃までの病臥の中で『疾中』詩篇を書いたものと推定される。

■昭和4年(1929年)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・33歳

1月、「文語詩篇」ノートに「一月 肺炎」とあり、「淋シク死シテ淋シク生マレン」と書き、消す。かなり弱気になっている。4月、父・政次郎町議会選挙で落選。以後、政次郎は選挙には出ず、小作調停委員などとして民生に尽くす。『銅鑼』同人で陸軍士官学校卒業旅行中の黄瀛(こうえい)の訪問を受ける。9月、書簡下書きに「夏以来床中ながらかれこれ仕事はできまして」とあり、文語詩の創作や口語詩の推敲などを行っていた可能性がある。12月、東北砕石工場主・鈴木東蔵からの問い合わせに答える手紙を書く。佐々木喜善へ原稿(内容不明)を送る。

■昭和5年(1930年)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・34歳

1~4月にかけて、賢治の健康は徐々に回復に向かい、自宅で野菜や草花の栽培などをするようになる。知人への書簡には、羅須地人協会の活動を「こころの病気」「行き過ぎ」などと書き、一方、農学校での生活が「いちばんやり甲斐のある時」であり、「生活の頂点」であったという。そして「まはりへの義理」を考えながら、「新しい方面へ活路」を開きたいと述べている。

4月12日、東北砕石工場の鈴木東蔵来訪。合成肥料調製について相談を受ける。この後、賢治は鈴木東蔵の相談に応える形で東北砕石工場の仕事に積極的に関わるようになる。農作業のできない賢治にとって、石灰による土壌の改良は、盛岡高等農学校時代の恩師・関豊太郎から勧められていたこともあり、農村改善への次善の策と考えられたのであろう。

8月、教え子への書簡に「いままで書いたものを整理」とあるが、「文語詩篇」ノートはこの頃書かれたものか。「八月 病気全快」とある。9月、鈴木東蔵に対し、広告・販売・経営にも協力したい旨書き送り、「貴工場に対する献策」という経営プランも作成し、陸中松川の東北砕石工場を訪問している。11月、『文芸プラニング』(北村謙次郎編集発行)三号に「空明と傷痍」「遠足許可」「住居」「森」を発表。

11月~12月の教え子への書簡では、「来年には釜石へ出て、水産製造の仕事をするか、東磐井郡(陸中松川)で東北砕石工場の仕事をするか迷っている」と書き、また別の書簡では「釜石か仙台のどちらかに出る、いっそ東京と思っているが家族が反対している」などと書いている。まだこの時点では仕事を決めかねている。

■昭和6年(1931年)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・35歳

1月、東北砕石工場の鈴木東蔵が賢治を訪問。具体的な仕事の打ち合わせができたのか、賢治は釜石行きをやめて、東北砕石工場の仕事をすることを決心する。この月、石川善助の訪問を受ける。石川はこの年、佐藤一英の編集する『児童文学』に賢治を推薦し、作品発表の機会を作った。

2月21日、鈴木東蔵が花巻を訪れ、契約書を交換し、東北砕石工場花巻出張所開設を正式決定する。この日から賢治は文字通り東奔西走することになる。賢治の仕事は、製品の改善と調査。広告文の起草・発送、製品の注文取り、販売などで、単に技師としてだけでなく、アド・マン、セールス・マンをひとりでこなしたことになる。賢治が販売・調査で回った地方は、県内各所にとどまらず、宮城・秋田・東京など広範囲である。しかし賢治はその働きぶりに反して、心の中では別のことを考えていた。手帳に記された詩には「わがおちぶれしかぎりならずや」「卑しくも身をへりくだし」などの言葉もあり、また「あらたなる/よきみちを得しといふことは/たゞあらたなる/なやみのみちを得しといふのみ/(中略)/あゝいつの日かかか弱なる/わが身恥なく生くるを得んや」とも言う。商業を嫌悪していた賢治にとって、それがいかに土壌改良の役に立つとはいっても、販売の仕事はつらいものであったろうし、また、農民に対する「裏切り」とも思っていた。

7月、季刊雑誌『児童文学』(佐藤一英編集)第一冊に「北守将軍と三人兄弟の医者」を発表。

9月、上郷村(現・遠野市)で教師をしている教え子を訪ね、人造石の原料調査を行う。これは「風の又三郎」の舞台の取材も兼ねていた。19日、途中各地(小牛田・仙台・水戸)で所用を済ませ上京するため花巻を出発。各種見本を大トランクに詰め、重さは40kgもあった。20日、午後東京着。神田駿河台に宿をとる。夜、激しく発熱。21日、発熱に不安・危機を感じて父母宛に遺書を書く。27日、賢治は父に最後の別れのつもりで電話をする。父は在京の知人に頼んで寝台車で賢治を花巻に帰させる。28日朝、花巻に着き、そのまま病床に伏す。

10月~11月、病床で「雨ニモマケズ手帳」を書く。10月29日、手帳に「疾すでに治するに近し」と書き、自戒として「法を先とし/父母を次とし/近縁を三とし/農村を最后の目的として/只猛進せよ」と書く。11月3日、手帳に「雨ニモマケズ」を書く。この月、草野心平は詩誌『弩』を創刊。賢治は文語詩を送ったが、草野はそれが気に入らず別の作品を求めた。

なお、この年1月、佐々木喜善『聴耳草紙』刊行。7月、草野心平「宮澤賢治論」を『詩神』に発表。

■昭和7年(1932年)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・36歳

この年一年、ほぼ病床で過ごす。3月、『児童文学』第二冊に「グスコーブドリの伝記」を発表。挿絵は棟方志功。4月、仙台在住の佐々木喜善来訪。『岩手詩集』第一輯に「早春独白」を発表。弟・清六、橋本アイと結婚。5月、母木光(儀府成一)来訪。6月、『岩手日報』に母木光の「病める修羅/宮澤賢治氏を訪ねて」という記事が出る。賢治は母木宛書簡で、この記事について迷惑であるとし、「何分にも私はこの郷里では財ばつと云はれるもの、社会的被告のつながりにはいってゐるので、目立ったことがあるといつでも反感の方が多く、じつにいやなのです」と書いている。26日、石川善助不慮死。

8月、『女性岩手』(多田保子編集発行)創刊号に文語詩「民間薬」「選挙」を発表。以後同誌に翌年7月まで2回にわたり文語詩を発表。10月、草野心平宛書簡の下書きで、主義の違いを述べる。また、刊行されて間もない草野の翻訳『サッコとヴァンゼッチの手紙抄』を読んだこと、読者になるから続いて仕事を見せてほしい旨いう。11月、『詩人時代』(吉野信夫編集)第二巻十一号に「客を停める」を発表。以後同誌に翌年7月まで2回にわたり詩を発表。

■昭和8年(1933年)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・37歳

1月、何人かに宛て、病気の回復と今後の希望を述べる便りを出す。2月、『新詩論』(吉田一穂編集発行)第二輯に「半蔭地選定」を発表。3月、『天才人』(松田幸夫編集発行)六号に詩「朝についての童話的構図を発表。4月、『日本詩壇』創刊号に「移化する雲」を発表。『現代日本詩集(1933年版)』(詩人時代社)に「郊外」「県道」を発表。6月、『鴉射亭随筆』(石川善助遺稿集)刊行。「友人感想」中に賢治の追悼文掲載。

8月、東北砕石工場との金銭関係の清算のための書簡を書く。15日、「文語詩稿 五〇篇」の推敲を終わり、定稿とする。妹・クニは賢治が生前文語詩を大切にして、「なっても(何もかも)駄目でも、これがあるもや」と言ったと伝える。なお賢治は、死の直前まで口語詩・文語詩・童話の推敲を続けていた。

9月11日、知人に過去の自分を振り返る内容の書簡を出す。そこには「あなたがいろいろ想ひ出して書かれたやうなことは最早二度と出来さうもありませんがそれに代わることはきっとやる積りで毎日やきとなって居ります」とあり、また「私のかういふ惨めな失敗はたゞもう今日の時代一般の巨きな病、「慢」といふものの一支流に誤って身を加へたことに原因します」という。

17日~19日、鳥谷ヶ崎神社祭礼。この間賢治は店先で祭の光景を楽しんだ。20日、容体一変、診断は急性肺炎。賢治は絶筆となる短歌二首を墨書する。「方十里稗貫のみかも稲熟れてみ祭三日そらはれわたる」「病のゆゑにもくちんいのちなりみのりに棄てばうれしからまし」。この年、東北地方は珍しく豊作であった。この夜、弟・清六には残された原稿は出版を希望する本屋があれば出すように言っている。父には迷いのあとだから適当に処分するように言い、母にはこの童話は仏の教えを書いたものだから、いつかはみんな喜んで読むようになると言ったという。21日、国訳の法華経を一千部印刷して知己友人に分けて欲しいと遺言する。遺言は次の通り。「合掌、私の全生涯の仕事はこの経をあなたのお手許に届け、そしてその中にある仏意にふれて、あなたが無上道に入られんことをお願いする外ありません。昭和八年九月二一日臨終の日に於いて 宮澤賢治」。午後1時30分、肉親の見守る中で永眠。23日、宮澤家菩提寺安浄寺(浄土真宗大谷派)で葬儀。会葬者二千人。(後、昭和26年7月、花巻市石神町389、身照寺(日蓮宗)に改葬。)

タイトルとURLをコピーしました