この花が咲き出すと、本当に春がやって来たのを感じます。宮澤賢治はこの花を「マグノリアの木」と呼び、童話の中でも美しく取り上げています。
コブシ(辛夷)
学名: Magnolia kobus
英名 : kobus magnolia, kobushi magnolia, northern Japanese magnolia
モクレン科モクレン属に属する落葉高木。
別名 : コブシ(辛夷、拳)、ヤマアララギ、コブシハジカミ、タウチザクラ、ヒキザクラ、ヤチザクラ、シキザクラ
中国での「辛夷(しんい)」はシモクレン(モクレン)のこと、またはそのつぼみを乾燥させた生薬を意味する。中国におけるコブシの名(漢名)は「日本辛夷」である。
宮沢賢治「マグノリアの木」より
(前略) 諒安(りょうあん)は眼を疑いました。そのいちめんの山谷の刻みにいちめんまっ白にマグノリアの木の花が咲いているのでした。その日のあたるところは銀と見え陰になるところは雪のきれと思われたのです。 (けわしくも刻むこころの峯々に いま咲きそむるマグノリアかも。)斯う云う声がどこからかはっきり聞えて来ました。諒安は心も明るくあたりを見まわしました。 すぐ向こうに一本の大きなほおの木がありました。その下に二人の子供が幹を間にして立っているのでした。 (ああさっきから歌っていたのはあの子供らだ。けれどもあれはどうもただの子供らではないぞ。)諒安はよくそっちを見ました。 その子供らは羅(うすもの)ものをつけ瓔珞(ようらく)をかざり日光に光り、すべて断食のあけがたの夢のようでした。ところがさっきの歌はその子供らでもないようでした。それは一人の子供がさっきよりずうっと細い声でマグノリアの木の梢(こずえ)を見あげながら歌い出したからです。 「サンタ、マグノリア、 枝にいっぱいひかるはなんぞ。」 向こう側の子が答えました。 「天に飛びたつ銀の鳩。」 こちらの子がまたうたいました。 「セント、マグノリア、 枝にいっぱいひかるはなんぞ。」 「天からおりた天の鳩。」 諒安はしずかに進んで行きました。 「マグノリアの木は寂静印(じゃくじょういん)です。ここはどこですか。」 「私たちにはわかりません。」一人の子がつつましく賢こそうな眼をあげながら答えました。 「そうです、マグノリアの木は寂静印です。」 強いはっきりした声が諒安のうしろでしました。諒安は急いでふり向きました。子供らと同じなりをした丁度諒安と同じくらいの人がまっすぐに立ってわらっていました。 「あなたですか、さっきから霧の中やらでお歌いになった方は。」 「ええ、私です。またあなたです。なぜなら私というものもまたあなたが感じているのですから。」 「そうです、ありがとう、私です、またあなたです。なぜなら私というものもまたあなたの中にあるのですから。」 (後略) [童話・宮澤賢治「マグノリアの木」より]
「マグノリア」とは?
モクレン科の学名がマグノリア(Magnolia)です。
この科にはモクレン(木蓮)Magnolia liliiflora 、コブシ(辛夷)Magnolia kobus 、タムシバ Magnoliasalicifolia 、ホオノキ(厚朴)magnolia obovata 、タイザンボク(泰山木)Magnolia grandiflora などがあります。それらの総称がマグノリアです。
童謡「マグノリアの木」では、「サンタ・マリア(聖母・聖マリア)をもじって聖化された「サンタ・マグノリア」が出てきます。そしてマグノリアの花を天に飛ぶ白い鳩と表現していますが、青い空に高く伸びる枝一面に咲いたこの花が春風に揺られる姿を見上げたときには、まさに鳩が飛んでいるように見えて胸が躍ります。
詩「悍馬」では「マグノリアの花と霞の青」、文語詩「社会主事 佐伯正氏」では「群れてかゞやく辛夷花樹(マグノリア)」、詩ノートには「あっちもこっちもこぶしのはなざかり」など出てきます。
文語詩「沃度ノニホヒフルヒ来ス」などの辛夷は木蓮よりもずっと高木で山野に自生し、早春に雪のように咲く。
文語詩「電気工夫」には「四方に辛夷の花深き」とあります。
童話「なめとこ山の熊」では「おかあさまはわかったよ、あれねえ、ひきざくらの花」「なぁんだ、ひきざくらの花だい。僕知ってるよ」と出てくるこの「ひきざくら」は地方方言名の辛夷の花のことです。同じく方言で「せきざくら」とも言われるようです。
「ええ、私です。またあなたです。」
「ええ、私です。またあなたです。なぜなら私というものもまたあなたが感じているのですから。」 「そうです、ありがとう、私です、またあなたです。なぜなら私というものもまたあなたの中にあるのですから。」 [童話・宮澤賢治「マグノリアの木」より]
この台詞には宮澤賢治の精神性や世界観がよく現れているなと思います。それは、賢治が詩集「春と修羅」第1集の「序」でも書いている、「すべてわたくしと明滅し みんなが同時に感ずるもの」「すべてがわたくしの中のみんなであるやうに みんなのおのおののなかのすべてですから」に通じるものがあると思います。
私たちは自分自身を深く知るために、他人というものを生み出しました。他人は自分の映し鏡とも言われます。相手の中に自分を投影して体験しているのがこの世界。
最近、他人を批判して文句ばかり言っている人たちが増えて来ているのをすごく感じます。対人関係で相手に対してイライラしてしまうのは、自分の中にその部分があるからこそ、それが目につくのです。自分の中にそういう部分が全くないのであれば、相手の言動に対して気づくこともイライラすることもないでしょう。
自分の人生は自分で選び創り出していくもの。小学校時代の先生が「人の振り見て我が振り直せ」と教えてくれたのを今でも覚えています。フォーカスするのは、いつも自分自身でありたいと思います。